先日、道場を卒業していった大智。

4月から夜のクラスに移行する新中学生達。

最後にきっちりと礼を尽くし、爽やかな挨拶をしてくれました

これほど嬉しい事はありません

ふと以前読んだ、岡崎主席師範がブログに書かれた手記のことを思い出しました。

皆さんにも是非、読んでいただきたいと思います。

岡崎師範は、福島県公立中学校の校長先生でもあります。



「お世話になりました」の一言が

私が教えることでもっとも大切なことのひとつが「お世話になりました」の一言を言わせることです。今時は大人も子どももこれが言えなくなってきました。「そう思えば言うし、思わなければ言う必要がないじゃないか。強制するのはおかしい。」という意見がすぐにも聞こえてきそうです。私は、自主性とか自発的とか言うことではなく、そう思えるように指導することが大切なのだと思っています。極端に言えば、場に応じてそう思っていなくても「お世話になりました」と言って頭を下げることができなければならないのです。

今では、お世話になることは当たり前で、それが権利として認められ、思い通りでなければ文句を言うといった感覚になっていないでしょうか。例えば、受験で合格したら頑張ったのは子どもで親は喜ぶだけ。先生に対して何の御礼の言葉もないのです。「先生が何様のつもりで御礼を言わせたいんだ」と切り返されそうですが、ここが教育のポイントだと思うのです。自分が何か成功したときに、喜ぶのと同時に、「誰のお陰か?」と気づかせる絶好のチャンスのひとつなのです。私の父親は、私が高校受験で合格したときに、私を電話の脇に座らせ、目の前で担任の先生に御礼の電話をしたものです。「お陰様で」「お世話になりました」を連発する父親を見て、「ああ俺はこんなにも先生に世話になっていたのか」と思ったものです。目の前でやって見せて教えてくれたのですね。しかも「おまえ小学校の担任に御礼言ったか?」と言われ、「そこまで必要あるのか」と思いましたが、逆らえる父親ではなかったので、小学校にいって担任の先生に御礼を言ったものです。そしたら小学校の先生の喜ぶこと喜ぶこと。それから30年以上経ちますが、いまだに嬉しかったと言われています。「自分の成功は誰かのお陰、失敗は自分の責任」と、うまいことを教えてくれたと親に感謝しています。

空手の世界でもこの言葉はとても大切です。私も上記のように親の教えで心がけていたつもりですが、20年ほど前の東北大会に出場し、3位に入賞したときです。盧山館長も審判で来られていたので、それなりに頑張ったつもりですが、力及ばず3位という結果でした。それでも一応入賞でしたので大会後のパーティーでは、挨拶があったりそれなりの待遇でした。内弟子時代はいつも裏方で主賓のような扱いをされたことがなかったものですから、多少浮ついてしまい、酒を注がれることにいい気になっていました。何かの拍子で館長の顔が見えたとき、ハッと我に返るところがあり、ビール瓶を持って急いで館長に酒を注ぎに行きました。なんとそれまで館長に酒を注いでいなかったのです。「オス、失礼しました。今日の結果は申し訳ありませんでした。」とまあしどろもどろの挨拶をしたのですが、「やっと来たか。まだまだだな。」と返されてしまいました。私は一気に酔いが覚めてしまいました。別に館長は偉ぶって言っているわけではないのです。私が一人で生きている訳ではないことを教えたかったのです。「人間は一人で生きているわけではない。多くの人に生かされているのだ。」ということを痛いほどわかっていたつもりが・・・恥ずかしさで一杯でした。「今で何を修行してきたのか」とすぐ浮ついてしまう自分が情けなくなってしまいました。

空手を一生続ける人間などほとんどいないのが現実です。始めるときはそれなりに勇気がいるものなのですが、始めて面白くなってくると「ずっと続けます」「一生やります」とか意気込んできます。ところがある日突然環境の変化や気持ちの変化でやめるときが来るのです。「やめる理由」が見つかったものはやめるものです。それを止められるものではありません。中学にはいるから、受験だから、他の習い事で忙しいから、飽きたからなど理由は様々です。やめるとなれば仕方のないことだと思います。ここで大切なことは「やめ方」なのです。何の連絡もなく来なくなってしまうものもいれば、「やめますから」の機械的なひとことでやめてしまう人もいます。町であっても素知らぬ顔という感じですね。逆に丁寧に「今までお世話になりました。」とあいさつに来る方もいます。そのような方は、その後どこであっても「その節はお世話になりました。」といういい感じのやりとりが続きます。人それぞれなのでどうこう言うことはないのですが、強くなるとか試合で勝つことなどよりも、実は「お世話になりました」の一言がいえるために空手の修行があったと思うのです。大会に出場したとき、審査を受けたときなど親や子の喜ぶ姿や悔しがる姿はよく見かけますが、「お世話になりました」「ありがとうございました」といった一言がつい忘れられているような気がします。決して先生に対してのおべっかなどではないのです。先生の側もそれで偉ぶるわけではありません。自分は「生かされている」という心を確かめるチャンスなのです。先生はそのための相手として利用しているだけなのです。「誰かのお陰で今の自分がある」そのことから「尊敬」や「感謝」の心が生まれてくるのです。

話があちこちにいきましたが、私は卒業する生徒達に「出会いはケンカでも、別れはお世話になりましただ。」「金や物ではない、ただその一言が俺の最後の教えだ」と教えています。それは先生に対してだけではなく、親や友達に対しても同じくするように教えています。今の時代、よけいな教えかも知れませんが、自分の子どもが高校受験に合格したときにも、子どもの目の前で担任に御礼の電話をしようと思っています。


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